#04 幽霊か、はたまた疲労か

アレクサンドリア出土のローマ帝国時代の装飾品。羊のネックレスとメダリオン。

ホテルでの朝食。ウェイターのムハンマドさんは、つまみ食いをする度に私たちにウィンクしてくる。本当に空腹なのか、愛嬌を振りまいているだけなのか。けれど、私はそれどころじゃなかった。

というのも、エジプトで口に入れるものには、けっこう警戒していたのだ。カリーマ先生の言葉が頭に残っていた。彼女はエジプト出身で、NHKのアラビア語講座にも出演している。笑顔がほんとうにかわいいし、頭も切れる。授業もおもしろくて人気者だ。そんなカリーマ先生が言っていた。「ナイルの水は世界一。世界一周クルーズで食中毒が起きても、エジプト人だけは平気なの。だって毎日で鍛えられてるから。」

その話を聞いて以来、私はずっと気をつけていた。生野菜も果物も、氷の入ったジュースも避けてきた。だけど、そうやって気を張っていると、食べられるものがどんどん減っていって、そろそろフラストレーションが限界に近かった。

この日、私たちはアレクサンドリアへ移動した。バスの中でガイドのムスタファさんが言った。「すでに何人か、おなかをこわしています。」

いよいよ「ナイルの水は世界一」という言葉の真実味が増してきた。

アレクサンドリアはカイロから北西へ200キロ。ナイルデルタを抜けた地中海沿いの街だ。3時間の道中、私はずっと悶々と考え込んでいた。

1週間前に初めてできたらしい彼氏はその3日後に別れようと言い出した。人間との信頼関係というのは一体なんなのだろうか。頭の中を彼の言葉と私の言葉がぐるぐると回っていた。答えの見えない押し問答とバスの冷房と車酔いへの警戒で私はぐったりしていた。

まず初めにポンペイの柱に立ち寄り、それから、コム・エル・シュカファ(Kom el-Shoqafa)のカタコンベへ向かった。カタコンベというのは、ローマ帝国時代に造られた地下の共同墓地だ。

岩盤をくり抜いた階段を降りていくと、ひんやりとした空気が体を包んだ。中ほどまで来たとき、急に、目の前が真っ白になった。

何も見えない。

でも、なぜかぜんぜん怖くなかった。「ああ、してやられた」と、むしろ少し笑ってしまった。カタコンベだし、精神的にもやられてるし、なにかにつけ込まれてもおかしくはない。

コム・エル・シュカファのカタコンベの階段を降りる場面のイラスト。

「目が見えない」と近くにいるはずのツアー参加者に声をかけ、左手でギザギザした壁をつたい、右手をみきちゃんに引いてもらってゆっくりと外へ出た。

地上に出ると、ぼんやりと明るさが滲む。堤防に座って休むことにした。5分ほどで視界が戻ってきた。心配そうに眉を下げたムスタファさんが、こちらを見ている。

目の前には、深い蒼色の地中海。風が強く、白い波が荒れている。ピクニックをしているカップルのヒジャブが風に揺れる。防波堤を歩く白い服の少女。カイロとはまるで違う光景だった。

昼食のあと、トイレに立ち寄る。観光地のトイレには「トイレおばさん」がいる。指をすり合わせてチップの合図。慌てて小銭を探す私。ただでさえ緊張する異国のトイレなのに、入口に門番がいると、怖さが倍増する。彼女たちはトイレットペーパーを渡してくれて、床をこまめに掃除して、この空間を守っている。それから、なぜかみんなちょっと怒った顔をしている。