03 ラクダ

翌日、私たちはギザのピラミッドに向かった。バスを降りると砂埃に白くかすんだ空と淡々と降り注ぐ太陽が待っていた。ピラミッドはあっさりと私たちの前に現れた。歴史のある神秘的で荘厳な古代遺跡は日常から遠く手の届かない場所にあるのだろうというありがちな期待を裏切り、宿から10分の距離にあった。まるでディズニーランドホテルの距離感である。

念には念を入れてと、私たちは日本から持ってきた日焼け止めをこれでもかと塗りたくった。長袖のパーカーを着て帽子をかぶり、使い捨てカメラを持った。ガイドブックには、防塵対応していないコンパクトカメラは壊れるし盗られるかもしれないから持っていくなと記されていて、この言葉に素直に従った。ここでラクダに乗って写真を撮った。4つのピラミッド群が背景にちょうど収まるフォトスポットである。ラクダを引く男性はローズグレイのガラベイヤを着ていた。ガラベイヤとは、長袖でくるぶしが隠れるほどの丈の長いエジプトの伝統的な服である。そして白いキャップを被ってその上に赤と白の千鳥格子のストールを巻きつけている。ラクダは鞍の周りに伝統的な織物とフリンジで飾られている。この布のパターンはエジプトというよりはベルベル系に近いような気がする。

ラクダはヒトコブラクダである。体毛は白灰色で短く、首がスッと伸びている。馬のように柔らかい、しかしもっと気怠そうな眼差しで人間を見て、大きな口を開けて威嚇したりする。7世紀、ビザンツ帝国の一部であったエジプトにササン朝ペルシアが侵入する。ヒトコブラクダはこのときにエジプトにもたらされた。ヒトコブラクダは暑さに強く平坦な道が得意である。アラブ人の地中海世界での拡大を待つまでもなく、北アフリカにヒトコブラクダは荷物や人を運ぶ家畜として普及する。歴史の表舞台に現れることのなかった人間の日々の営みを鮮やかに描き出した、フェルナン・ブローデル『地中海』における移牧に関する指摘だ。

02 街の音

ホテルに着いた。デルタピラミッドホテルという大きなホテルだ。外壁が赤と緑の縞模様に彩られていて、ヒダ状に各部屋のバルコニーがデザインされている。独特である。エントランスは大理石でひんやりとしていて薄暗い。照明が少ないのか外の太陽光が眩しすぎるのか、建物の中は薄暗く感じる。赤いユニフォームのポーターの男性が2、3人で出迎えてくれた。彼らはニコニコしてとてもフレンドリーだ。部屋割りは決められていて、私はアラエさんと同じ部屋になった。

部屋に入ると、ベッドの上に妙な形に折り畳まれたタオルが置いてあった。なんだろうとアラエさんと話す。よく見ると、どうやらタオルアートのスワンらしい。かわいらしいベッドメイキングだ。しかし洗面台のコップにヒビが入っていたり、シャワーのお湯が出なかったり、水回りにやや懸念がある。どうしてこれが四つ星ホテルなのだろうかと壁にかけられた星の数を見て不思議に思う。夕方、オプションツアーに申し込んだ人たちは、ピラミッドの光と音のショーに出かけて行った。

クラクションが絶え間なく鳴り、道ゆく人々が大声で話し、ホテルの部屋の中で窓を閉め切っていても聞こえるけたたましさである。中東という場所が気になって、直接見てみたかった。9.11が起きたとき、政治経済の先生が中東問題を授業で取り上げ、夏休みにレポートを書いたことを覚えている。センセーショナルな出来事だと大人たちは言っていたけれど、ニュースはあらゆる出来事をセンセーショナルだと伝えていてそれぞれの違いはもはやよくわからなかった。ただ私にとって驚きだったことは、アメリカに歯向かったり、隣国同士で長期間にわたって大々的に対立を続けていることだった。自分より強い存在に対して当たり障りなくやり過ごしていくのが大人の世界の流儀であり、だから教室では強い意見を察した多数決で意見が決まる。東京の流行を追いかけ、毎日一切身動きの取れない満員電車に詰め込まれて東京に働きに行き、数が多く主流を代表する東京が正義で、自分の地域の文化は存在しない。あるいはとても下位にあって自慢できるものではないことを受け入れるしか選択肢がないと疑うことなくこれまで信じていた。しかしそうではないこともあるのかもしれない、初めて疑問が意識の中に降りてきた瞬間だった。何がどう疑問だとはっきりと言葉にできないけれど、何かがあると思った。

カイロは人であふれている。全ての車からクラクションが鳴っている。信号があるのかないのかよくわからない。クラクションを常に鳴らして車は自身の存在を示そうとしている。警告音としてではなく、呼吸するようにクラクションを鳴らす。そして大声で誰かを呼ぶ。これがカイロの街の音だ。

01 カイロへ

2006年9月8日、カイロ国際空港に到着した。関西国際空港からエミレーツに乗り継ぎ、さらにドバイ国際空港で早朝に数時間待たされて、すでに20時間ほどが経っていた。タラップで地面に降り立つと、冷房で冷え切った身体をアスファルトから立ち上がってくる熱風が包む。そこからバスに乗り込み、次に降ろされた到着ホールは簡素な建物だった。壁にアラビア語の装飾があった。現地のアラビア語に胸が高鳴った。順路を辿っていくと、「『地球の歩き方』学生ボランティア エジプト 遺跡保護活動 国際交流」と書かれたプレートを持って出迎えに来ている添乗員らしき男性を見つけた。彼に言われるがままに両替とビザの購入をし、荷物を受け取って出口に向かう。

空港の出口には、たくさんのタクシーの客引きが待ち構えている。彼らはみな、携帯電話を耳にくっつけて大声で喋っている。彼らの携帯電話は、親指と人差し指でつまめる程度に小さく、2つに折りたたむことも絵文字を打つこともしない、ただ声を遠くに運ぶことに特化したNokiaの黒いカブトムシのような端末である。Nokiaは日本ではあまり見かけないが、携帯電話市場で世界最大の携帯電話メーカーだ。旅行客が出口を出ると、それまで携帯電話で話していた彼らは”TAXI!!TAXI!!”と叫び、我さきに自分の乗客を捕まえようと客引きを開始する。彼らが乗っているタクシーは、セダンタイプでドアが4つあり後部座席に3人が乗ることができる日本でも見慣れた車種である。しかし、窓は全開、エアコンは機能してるか不明、数えきれないへこみが至るところに見られる。そしてドライバーは呼吸をするようにクラクションを鳴らす。この客引きの波はものすごい圧力で、押し寄せてくる空港の熱風のようである。

ムスタファさんがバスが到着したと私たちに知らせた。このツアーの添乗員は2人いて、1人が先に迎えに出てきたムスタファさんで、もう1人がバスに乗っていたイスラムさんだ。2人とも英語と日本語を操ることができ、とても穏やかで優しい人柄である。タクシーの客引きの波を通り過ぎた。ムスタファというのは預言者ムハンマドの別名でイスラム圏で広く用いられる名前である。しかしそんなことよりも、彼の眉毛がなだらかな波のように結ばれていて、私たちはみな会った瞬間からすっかり魅了されてしまった。私たちはバスに乗り込んで33km離れた宿に向かった。

カイロは世界でもっとも古い文明を持つ都市のひとつである。この都市はナイル川の下流に位置している。夏にはナイル川が氾濫し、河口ではその豊かな水と太陽で農作物を育てる。「ナイルの賜物」とヘロドトスが言ったというその場所である。数多くの王朝がこの場所で起こり、都市を築き文化を育み他文化と交流した。このエジプトの歴史について専攻することを、私はなんとなく選んだ。決め手があったようでなかったような気もする。ムバラク政権はこの年に25年目を迎える。

高速道路を移動していくと、道の脇にあちこちで民家を建設しているのが数多く見える。その作業風景はおどろくほど簡素で、人が手作業で木や鉄筋の棒を軸に泥やレンガを埋めて壁を作っている。四角い窓があり、屋根は平らで3階建てか4階建てほどの長方形の空間を次々に積み上げている。どういうわけか、どの建物も屋根から棒が突き出たままの状態で人が住み始めているようだ。住人たちは窓からたくさんの洗濯物を干している。この作り方で壊れないのだろうか。灼熱の太陽の下で作業を進める彼らを、冷房が効きすぎているバスの窓越しにぼんやり眺めていた。

00 はじめに

長い長い旅だった。ようやく終わった感じがする。どうやって毎日を暮らしたらいいか、何を食べ何に笑い誰と会い何を仕事にして何を着てどんな家族を持つのか、ずっと知りたかった。紙の上に並べてみよう。見ていたようで私はいつも何も見えていないから。最初の街はエジプトだった。