10 雑で適当でカオス

私たちはディナークルーズを満喫し、宿に戻った。私はアラエさんとペットボトルの水を買いにいくことにした。「ホテルで買うよりも近くの売店のほうが格段に安いよ」とたっくんが教えてくれて、一緒に出かけることにした。陽が落ちたカイロの街は、まるで夜明けのようなまどろんだ空気になっていた。売店は90cm程度の入り口の奥にガラスの商品ケースがあり、右の壁際にある木棚に調味料やスナック菓子が並んでいた。左の壁際にはBottled waterが6本パックでビニールに包まれて床に積み上げられている。商品ラベルにはアラビア語のロゴが印刷されていた。ボルヴィックやエビアンなどのブランドも少しある。私たちは店主の男性に声をかけて値段を聞いた。私は1.5Lの水を1本買ってみることにした。エジプトの小銭を手の上に広げて言われたコインを探す。初めて訪れた国での買い物はたとえ少額であっても緊張した。バカにされるのも嫌だけれど、かと言って助けてもらわなければ何もできない。店主が必要な額のコインを指差して教えてくれ、無事に買い物を終えることができた。私は「シュクラン」と言って店を後にした。少し胸のあたりがホクホクした気持ちになった。

その後、私たちは道すがらメリディアンホテルに立ち寄った。たっくんが両替をするというからついてきたのだ。エントランスロビーを歩くと赤い絨毯がふかふかしている。天井から吊るされたシャンデリアがキラキラと輝いている。このホテルはとても立派な高級ホテルだ。待っている間にトイレを借りた。見慣れたスタイルだった。日本を離れてたった3日なのにたちどころに安堵感があふれてくる。海外に来たのだと突きつけられる様に実感したのも、ドバイ空港の身長差を強烈に伝える高い便座だったことを思い出した。

両替を終え、私たちは宿へと向かった。通りを歩いていると、散歩に出かける家族連れを見かけた。小学生ほどの子供もいるし、もっと小さな子供を腕に抱えて歩いている家族もいる。カイロの人々は昼間の暑さを避けて、夜に外出するのかもしれない。物売りの子も籠いっぱいにティッシュや小さなおもちゃを持って売り歩いている。車の往来の間を人々はごく自然に、アイコンタクトや身振り手振りでドライバーたちと意思疎通をして渡っていく。信号なんて待つ人はどこにもいない。私たちは現地の人についていくようにして必死に渡る。通りにはしばしばロバで野菜や果物を運ぶ人がいたり、気怠そうに座り込むラクダがいたり、馬に乗っている警官がいたりする。また人々は道端に平気で座り込んで談笑する。簡易的なピクニックをしているのだ。この通りは3車線ほどの道幅で車もひっきりなしに行き交うのだが和やかにピクニックしている。カイロの道路はおおらかでなんでもありだ。そう、おおらかだ。雑で適当でカオスのこの街はおおらかなのだ。

09 ナイル川

陽が落ちた頃、ムスタファさんやイスラムさんに見送られて、私たちはタクシーでナイル川の船上ディナーに向かった。全員、エジプトのタクシーに乗るのは初めてだ。ホテルの部屋のルームメイトと一緒にタクシーに乗りこんだ。タクシーは黄色い車体でボロボロの中古トヨタ車だ。私はアラエさんと一緒だ。エジプトのタクシーはメーターが付いていて、距離に応じて値段が変わる。しかしこのメーターはたいてい壊れている。だから必ず、目的地に応じて値段交渉をする必要がある。ムスタファさんは、私たちにあらかじめ相場の値段を教えてくれた。タクシーの運転手はクラクションを常に鳴らしている。開け放った窓から風が吹いてくる。陽気な運転手はどこから来たのかと、私たちに話しかけてきた。隣のタクシーから窓越しに話しかけられると、大きな声で返事をする。信号に従っているようには見えず、どうしてこれでぶつからないのか、私たちは命がけでタクシーに身を任せた。目的地まで20分くらいだっただろうか。ただ乗っているだけなのに、アラエさんも私もとてつもなく必死だった。

私たちはナイル川のほとりに到着した。タクシーを降りてから運転席の窓越しに代金を手渡した。なんとか無事に命がけタクシーの冒険が終わった。他の参加者も無事に到着した。桟橋には曲線を描いた白い金属製の柵があり、その向こうにクルーズ船MIS AQUARIUSが停泊していた。船の大きさは50mあるいはもう少し大きく、客室が2階までありその上はデッキになっている。どこかのホテルグループが所有しているようだ。観光客向けにエジプト料理、ベリーダンス、スーフィーダンスを用意したディナークルーズはナイル川のそこかしこにある。船内に入ると、テーブルの上にずらりと料理が並んでいるのが見えた。けれど薄暗くてどんな料理なのかよく見えない。そもそもエジプト料理だから何が入っているのか判別することができない。私はとにかく警戒していて、加熱したものだけを選んだ。客は100人ほどいるだろうか。その中央に小さなステージがある。私たちが食べているときに、様々な音楽やダンスが繰り広げられていた。

初めてベリーダンスを見たのは、西日暮里のザクロ、アリさんのお店だ。東洋史専攻の新入生歓迎のお食事会が、伝統に従ってザクロで開催されたのだ。ザクロでは床に絨毯を敷き、その上に様々な料理を並べ、客は靴を脱いであぐらをかいて輪になって料理を楽しむ。店主のアリさんはトルコの出身で、流暢な日本語でアグレッシブな営業トークを繰り広げる。週に何回かベリーダンスのショーがあり、客席の中央のスペースでダンサーが踊り、そしてアリさんの掛け声のもと客は強制的にダンスに参加することになる。隣の席の初対面の人たちとベリーダンスを踊ることができる陽気な店である。日本ではエクササイズ感覚でベリーダンスを習っている人が多い。腹部を揺らす動作が中心なので、ウエストが引き締まるという理屈である。ザクロで見たダンサーもすらりとした体つきだった。ダイエットという言葉が至上命題として降り注いでいる日本において目指すべき理想体型である。

そうではないのかもしれない、と小さな予感が降ってきたのは、先月パレスチナ出身の友人が踊ってみせてくれたベリーダンスだった。ベリーダンスというのは、腹部を揺らすのではなく、いかに腹部の肉を揺らすかなのだ。豊かな人ほどセクシーであるという。ウエストが細いほうがよしとされている基準しか知らなかったが、全然違うのだ。ここでは細いウエストではただただ貧相にしか見えないのだ。なんて言ったらいいんだろうか。表現する日本語すら見つけられない。本当にお腹に肉が揺れることが美しく見えてくるのだ。この船のダンサーもまた優美に妖艶にお腹の肉を揺らしている。

ステージでは、黄緑とピンクのネオンカラーの衣装の男性がその場でくるくると廻り始めた。スーフィーダンスである。世界史の教科書でスーフィズムの説明のページを開くと併せて写真が載っているあれである。本当にくるくる廻っていてまるでコマを回しているようだ。回る踊りだと知っていたのに、この目で見るまであんなに廻るなんて想像していなかった。知っていると思ってもわかっていないことがある。百聞は一見にしかずと古くから言うけれど、そういうことではなくて、知っているとか見たことがあるとかそれで私たちは何を共有しようとしているのだろう。

08 地中海

そのまま少し歩いて、海岸沿いの堤防に座ってしばらく休むことにした。5分もすると次第に元どおりに見えるようになってきた。心配そうに眉を下げたムスタファさんの顔が目に入った。目の前には深い蒼色をした地中海が広がっていた。風が強く白い波が荒れている。カップルがピクニックをしている。女性のヒジャブが風になびいている。白い服を着た少女が防波堤の上を歩いている。カイロとは全く異なる風景だ。

昼食休憩のときにトイレに立ち寄った。観光地のトイレにはトイレおばさんがいる。指を擦り合わせる仕草でチップが必要だと言っている。私はあわてて小銭を探す。ただでさえトイレのスタイルが日本と違い、幾分緊張しながら向かうのに、さらに門番がいるのでとても怖い。チップと交換にトイレットペーパーを渡してくれ、随時床掃除をして清潔にしてくれる。彼女たちはなぜかみんな怒った顔をしている。

私たちはホテルに戻った。交通量の多いキング・ファイサル通りに面したエントランスは赤い絨毯が敷いてあり、エントランスポーチには背の高い鉢植えの観葉植物が並び、ガラス張りの壁とガラスのドアがある。たいていいつもドアは開け放たれいて、中に入るとガンガンに冷房が効いている。ロビーの壁と床はクリーム色の大理石で、少し歩くと右手にレセプションがある。レセプションの右側の壁には4つの時計が掛けられ、それぞれ下に金色のプレートがついている。左からTOKYO, LONDON, NEW YORK, CAIROと並んでいる。その下には、横14マス縦10マスの棚があり、部屋の鍵が置いてある。レセプションの奥には、エジプトの民族衣装やポストカード、キーホールダーを並べたスーベニアショップがあった。時間潰しに眺めていると、店主が声をかけてきた。アフマドさんというそうだ。人懐っこいくりくりとした眼をして、グレーまじりの口髭をはやし、オーバル形のメガネをかけた男性である。いつも笑顔で絵に描いたように白い歯が三日月の形に微笑んでいる。私は通りかかるたびに挨拶するようになった。

07 カタコンベ

私たちはホテルで朝食を食べる。ウェイターのムハンマドさんはつまみ食いをして、その度に私たちに向かってウィンクをする。私はエジプトで口に入れるものはかなり警戒していた。なぜならカリーマ先生の言葉が引っかかっていたからだ。エジプト出身のカリーマ先生はNHKアラビア語講座でも教えている。笑顔がかわいいし授業も楽しくて学生からの人気もある。彼女によると、「ナイルの水は世界一だ。世界一周のクルーズ船で食中毒が起きてもエジプト人だけは大丈夫。なぜかというと日々の生活で鍛えられているから。」だそうだ。だから、宿以外で生野菜や果物、氷入りのジュースを出来る限り避けてきた。しかし気を遣うあまりに食べられない物が多く、そろそろフラストレーションが限界に達しそうだ。

この日、私たちはバスでアレクサンドリアに移動した。ムスタファさんのアナウンスによると、すでに何人か腹痛の症状が出ているらしい。「ナイルの水は世界一」という言葉の真実味が増してきた。アレクサンドリアはナイルデルタを降って、カイロの北西200kmに位置する地中海沿岸都市である。3時間ほどかかった。その道中、バスの中で悶々と考え込んでいた。1週間前に初めてできたらしい彼氏はその3日後に別れようと言い出した。人間との信頼関係というのは一体なんなのだろうか。頭の中を彼の言葉と私の言葉がぐるぐると回っていた。答えの見えない脳内押し問答とバスの冷房と車酔いへの警戒で私はぐったりしていた。

私たちはまずポンペイの柱に立ち寄り、それからコム・エル・シュカファ(Kom el-Shoqafa)のカタコンベに行った。カタコンベというのは地下に作られた共同墓地である。この場所はローマ帝国支配下の1-3世紀に使われていた。岩盤をくり抜いて作られた階段が地下へと続いている。ピラミッドの通路よりも広く、しゃがむことなく歩いて行ける幅と高さがある。階段をくだっていくとひんやりとした空気が身体を包む。中程まで進んだところで急に目の前が真っ白になった。全部白くて見えなくなった。けれども私は微塵も動揺することなく受け入れた。怖いとも思わなかった。「ああ、してやられた。見えない。まあ仕方ないか」と、むしろ少し面白いとさえ感じていた。精神的にもやられてるし、カタコンベだし、何かにつけ込まれても不思議はない、そう思った。自力では何もできないので、近くにいるはずのツアー参加者に声をかけた。目が見えなくなったと伝えると、彼らは少しぎょっとした反応をした。左手で冷たくてギザギザした壁をつたい、右手をみきちゃんに引いてもらって、カタコンベの外に出ることができた。

06 ミナレット

私たちはカイロ市内に戻り、エジプト考古学博物館に向かった。博物館に入ると、天井は高く、白っぽい石の床が続いていた。たくさんの出土品が並んでいるが、それがなんなのかほとんど説明がない。風が吹かずむっとした空気で、暑くて埃っぽい場所だ。教科書に載っているような有名な巨像が無造作に配置されていて、その間に40cm程度のすすけた丸いものがぽこぽこ並んでいる。それら全てに”mummy”, “mummy”, “mummy”とキャプションがついていた。子供のミイラだ。新生児のミイラかと少し寒気が走った。しかし同時にこの展示は雑すぎて、申し訳ない気持ちになった。発掘される量が多すぎて解説するのが追いついていないのか、ただの物置きというか。この状態で鑑賞するには知識が足りなすぎて、私たちは足早に博物館を後にした。

ピラミッドのような複雑で巨大な建造物を作る技術を有し、ローマ帝国、イスラム世界を受け入れて数々の王朝がここに都市を作り、さまざまな民族が往来し、複雑な文化を折り重ねてきた土地の博物館がこんなに雑に存在していることに衝撃を受けた。手を抜いていい。手を抜いても誰も困らないのか。私は手を抜くというのがずっとわからない。手を抜くポイントがわからず毎回自分の身体を壊している。その繰り返しだ。私は、手を抜いて怒られたり失敗したりして後悔するのを酷く恐れている。

私たちは次にパピルスのデモを見学した。建物に入ると、壁は大理石で窓がなく、冷房が効いてひんやりとしていた。長机の端にパピルスの草が立てかけられている。パピルス紙制作の実演が始まった。パピルスは白い繊維質の中心部を緑色の外皮が覆っている。先端に細い葉をつけたサトウキビに似た外観をしている。緑色の外皮を剥いで白い中心部を水につけてふやかす。次にナイフでごく薄くスライスし、板の上に縦方向と横方向に並べ、木槌で打ち付ける。それを乾かすとパピルス紙が出来上がるという。この部屋の壁という壁にはツタンカーメンの顔やピラミッド、エジプト神話やアラビア語のカリグラフィなどの絵が掛けられている。どれもパピルスに描かれていた。大きなサイズだがお土産に買う人がいるのだろう。

この後、ムスタファさんは私たちを香水屋に連れていった。店頭には繊細なガラス細工の香水瓶が並んでいた。バラの香りがあたり一面に充満している。エジプトの香水といえばバラ一択らしい。私はバラの香りが苦手でなかなか手が出せない。他のツアー参加者は楽しそうに手にとって見比べている。どれを買うか店主と話したりもしている。私もエジプトらしいみやげものを買いたいという旅行者の見栄が内心にあった。結局、赤色の小さな香水瓶に入ったバラの香水を1つ購入した。香水瓶は10cmほどの高さで、ワイングラスのように直径2cmほどの円形の台座の上に膨らみがあり、ここに香水が入っている。上部にフタがありつまみがついている。フタをとるとその先には細長い棒がついている。この棒についた香水を直接肌にこすり付けるのだ。外側全体は切子硝子のように模様があしらわれている。少しずつ模様が違い、同じものは1つとしてない。

買い物を終えると、私たちはムハンマド・アリー・モスクに向かった。これはエジプト考古学博物館から南東方向、シタデル地区にある大きなモスクだ。ドーム型の屋根を3段に重ね、背が高く先端が尖った2本の塔がある。南校舎の教室で昼下がりに眠気と戦いながら輪読した文章には、モスクにはミナレットという塔がありその上でアザーンを歌って礼拝の時間を知らせると書いてあった。これがそのミナレットというものか。英語の文献を辿るだけではわからない。ああ、こういうことだったのかと何かポトンと腑に落ちた。ムスタファさんが、バスの中で運転席の横に立ち上がって私たちに伝えた。「金曜日の礼拝の時間でモスクの中には入れない。外から見るだけになっちゃうけどいいかな。」朝からピラミッドを回って疲れ果てていた私たちは、無言でうなずいて同意した。記念にバスの窓越しに携帯電話で写真を撮った。しかしパピルスのデモや香水屋に立ち寄る時間があったのなら、モスクを先に見ればよかったのにと残念に思った。

私たちはホテルに戻ってひと息ついた。窓の向こうからクラクションの間を縫うように何か鳴っているのに気がついた。歌のようなものだ。抑揚がついている。ようやくこれが、ミナレットから流れるアザーンであることに気が付いた。さっきミナレットを目の当たりにして、ようやくこの音の正体がつながった。実際に見て、聞いてみないとわからなかった。宗教儀式のひとつなのだから静かで柔らかな声色を頭の中で想像していた。しかし、現実はただひたすらに拡声器で最大化した大音量の騒音である。これが1日5回、礼拝の時間にミナレットから街中にあふれかえる。

05 ピラミッド

ひとしきり撮影を楽しんだ後、ムスタファさんは私たちをクフ王のピラミッドの中へ案内した。入口は人が1人ようやく入れる程度、幅50cm高さ140cmくらいの穴がくり抜かれている。この入口の先に薄暗い階段が下へ続いている。階段と言っても木の板に滑り止めをつけたようなもので、足元はおぼつかない。大量の観光客が列をなしてトンネルを歩いていく。まるで火災時の避難訓練のような光景である。背の高い欧米系の旅行者たちは大きな背中を丸めて歩いている。階段を降りたり登ったりして必死で前の人に着いていく。狭くて暑くて人が大勢いて息苦しくてほとんど記憶がない。急に列の歩みが止まった。そこには何もない空間が広がっていた。ただただ何もなかった。そこにいた全員が何もない空間で息を飲んだように何かを見つけようとあたりを見回していた。そしてやっぱり何もなくて、なんで必死の思いをして来たんだろうとまたがっかりした。

ギザのネクロポリスには4つのピラミッドがある。最も大きいものがクフ王のピラミッドでその次がカフラー王のピラミッド、その次がメンカウラー王のピラミッドで、小さな3つのピラミッドが並ぶのが王妃のピラミッドだ。カフラー王のピラミッドだけ、上部に建設当時の表面を覆っていた化粧岩が残っていて白っぽく見える。これらのピラミッドが建設されたのは紀元前2500年頃、古王国時代である。ピラミッド研究は考古学に属する。考古学というのは発掘する場所を決めると、数ヶ月にわたって掘り続ける、細心の注意を払いながら堀り続ける作業である。民族考古学の山口先生はポリネシアの専門だが、掘り続けると鬱になると言っていた。彼の授業はいつも面白かった。そしてその言葉が宙に浮いたように頭の中に思い出された。

私たちはさきほど来た狭い道を、また同じように必死の思いをしながら戻って外に出た。ムスタファさんが遺跡周辺のゴミ拾いをしようと、ビニール袋を私たちに配った。このツアーは遺跡保護をテーマのひとつにしているからだ。私たちはビニール袋を片手に太陽を白く照り返す地面を目を凝らして歩き回った。しかしゴミなんてほとんど落ちていなかった。代わりにせっかくだからと、砂漠の砂を袋に入れて持って帰った。そして次にスフィンクスの前に移動した。スフィンクスは本当に頭が人間で身体がライオンである。ピラミッドよりもずっと異様な存在感がある。「トリビアの泉」で観た通り、スフィンクスの鼻先にはケンタッキーフライドチキンがあった。キエちゃんと私は、スフィンクスの左右から頬にキスをするポーズで写真を撮ろうと決めて、よしみにカメラを預けた。よしみがファインダーを覗きながらもっと近づいてと言ったけれど、キエちゃんと私はもはやキスしそうな距離感に顔が熱くなってきた。結局、スフィンクスの両脇で恥ずかしさを堪えた横顔が2つ並んだ写真ができあがった。駐車場までの道に露天商のような土産物屋が並んでいた。店主たちは、私たちをみると「ヤマモトヤマ~」とか「モウカリマッカ?」と話しかけてくる。

04 撮影

再びバスに乗ってピラミッドのふもとまで移動する。ギザのピラミッドは太古の昔に岩を積み上げて作られた三角錐の建造物で、どこまでも続く砂漠と同じ色をしている。これは数字の上ではシンデレラ城よりも高い。しかしとても低く迫力がない姿に見える。テレビで見た画があまりに仰角で期待を大きくしすぎたのだろうか。渋谷の高層ビルに比べたら全然低いじゃないかとがっかりしてしまった。

そうは言っても、ピラミッドを目の前にした私たちは嬉々としてポーズをとって写真撮影をした。ムスタファさんはピラミッドのポーズをやって見せてくれた。これは左の親指と右の親指、それ左の人差し指と右の人差し指をそれぞれくっつけて三角形を作るものだ。キエちゃん、よしみ、みきちゃん、ムスタファさんとイスラムさんの6人で写真を撮った。今度はピラミッドの石に登ってみる。実際に足をかけてみて気がついた。これらの石は1つ1つがとても巨大でとても簡単には登ることができない。一辺が1.5mはありそうだ。3段に分かれて並びポーズを取った。ムスタファさんは6人分のカメラを腕に抱えて、撮る度に誰のカメラか確認しながら代わる代わるシャッターを切り続けた。添乗員というのは大変な仕事だ。

周囲の外国人観光客も一眼レフカメラやコンパクトカメラでたくさんの写真を撮っている。撮って誰かに見せたいと願う。ああ、これは小さな祈りなのだ。叶うかもしれないし叶わないかもしれない。誰も見ないし誰も共感しないかもしれない。こんなにたくさんの写真を撮ってどうするのだろう、そういう疑問や不安に蓋をするようにファインダーを覗いてシャッターボタンを押し続ける。

私たちは普段、携帯電話で写真を撮る。写メールという言葉が誕生して以来、ここ数年で次々とカメラ機能付き携帯電話が発売されてきた。しかしここエジプトではほとんど見かけることはない。彼らの携帯電話には写真を撮る機能がないようだ。私たちは、写真を撮るための専用の道具があるにもかかわらず、2.2インチの液晶画面でやり取りするために写メを使う。常に手元にある道具で撮って、すぐにメールで送ったり、ミクシィにアップできることが最大の魅力だ。うまく撮れなかったら消去すればいいから、とても気楽になんでも撮る。

それに比べて、使い捨てカメラを最後に使ったのはどれくらい前か思い出せないほど昔のことだ。使い捨てカメラなんて昭和の産物である。子供の頃、旅行先で観光客向けの売店で目立つ場所に置かれていたのを見かけた。あるいは家族で厚生年金プールに行ったときに両親が使い捨てカメラを買っていたような気もする。自分で写ルンですを購入したのはこれが初めてだ。価格は1000円を少し超えるくらいだっただろうか。こんなに高いのかと少し驚いた。うまく撮れたか確認することもできないし、撮れる枚数にも限りがある。現像にもお金がかかるし、直接会う人にしか見せることができない。現像しても保管場所に困ったりもする。アルバムを常時持ち歩くわけにもいかない。不便極まりない。緊急事態にしか使うことはない道具である。

03 ラクダ

翌日、私たちはギザのピラミッドに向かった。バスを降りると砂埃に白くかすんだ空と淡々と降り注ぐ太陽が待っていた。ピラミッドはあっさりと私たちの前に現れた。歴史のある神秘的で荘厳な古代遺跡は日常から遠く手の届かない場所にあるのだろうというありがちな期待を裏切り、宿から10分の距離にあった。まるでディズニーランドホテルの距離感である。

念には念を入れてと、私たちは日本から持ってきた日焼け止めをこれでもかと塗りたくった。長袖のパーカーを着て帽子をかぶり、使い捨てカメラを持った。ガイドブックには、防塵対応していないコンパクトカメラは壊れるし盗られるかもしれないから持っていくなと記されていて、この言葉に素直に従った。ここでラクダに乗って写真を撮った。4つのピラミッド群が背景にちょうど収まるフォトスポットである。ラクダを引く男性はローズグレイのガラベイヤを着ていた。ガラベイヤとは、長袖でくるぶしが隠れるほどの丈の長いエジプトの伝統的な服である。そして白いキャップを被ってその上に赤と白の千鳥格子のストールを巻きつけている。ラクダは鞍の周りに伝統的な織物とフリンジで飾られている。この布のパターンはエジプトというよりはベルベル系に近いような気がする。

ラクダはヒトコブラクダである。体毛は白灰色で短く、首がスッと伸びている。馬のように柔らかい、しかしもっと気怠そうな眼差しで人間を見て、大きな口を開けて威嚇したりする。7世紀、ビザンツ帝国の一部であったエジプトにササン朝ペルシアが侵入する。ヒトコブラクダはこのときにエジプトにもたらされた。ヒトコブラクダは暑さに強く平坦な道が得意である。アラブ人の地中海世界での拡大を待つまでもなく、北アフリカにヒトコブラクダは荷物や人を運ぶ家畜として普及する。歴史の表舞台に現れることのなかった人間の日々の営みを鮮やかに描き出した、フェルナン・ブローデル『地中海』における移牧に関する指摘だ。

02 街の音

ホテルに着いた。デルタピラミッドホテルという大きなホテルだ。外壁が赤と緑の縞模様に彩られていて、ヒダ状に各部屋のバルコニーがデザインされている。独特である。エントランスは大理石でひんやりとしていて薄暗い。照明が少ないのか外の太陽光が眩しすぎるのか、建物の中は薄暗く感じる。赤いユニフォームのポーターの男性が2、3人で出迎えてくれた。彼らはニコニコしてとてもフレンドリーだ。部屋割りは決められていて、私はアラエさんと同じ部屋になった。

部屋に入ると、ベッドの上に妙な形に折り畳まれたタオルが置いてあった。なんだろうとアラエさんと話す。よく見ると、どうやらタオルアートのスワンらしい。かわいらしいベッドメイキングだ。しかし洗面台のコップにヒビが入っていたり、シャワーのお湯が出なかったり、水回りにやや懸念がある。どうしてこれが四つ星ホテルなのだろうかと壁にかけられた星の数を見て不思議に思う。夕方、オプションツアーに申し込んだ人たちは、ピラミッドの光と音のショーに出かけて行った。

クラクションが絶え間なく鳴り、道ゆく人々が大声で話し、ホテルの部屋の中で窓を閉め切っていても聞こえるけたたましさである。中東という場所が気になって、直接見てみたかった。9.11が起きたとき、政治経済の先生が中東問題を授業で取り上げ、夏休みにレポートを書いたことを覚えている。センセーショナルな出来事だと大人たちは言っていたけれど、ニュースはあらゆる出来事をセンセーショナルだと伝えていてそれぞれの違いはもはやよくわからなかった。ただ私にとって驚きだったことは、アメリカに歯向かったり、隣国同士で長期間にわたって大々的に対立を続けていることだった。自分より強い存在に対して当たり障りなくやり過ごしていくのが大人の世界の流儀であり、だから教室では強い意見を察した多数決で意見が決まる。東京の流行を追いかけ、毎日一切身動きの取れない満員電車に詰め込まれて東京に働きに行き、数が多く主流を代表する東京が正義で、自分の地域の文化は存在しない。あるいはとても下位にあって自慢できるものではないことを受け入れるしか選択肢がないと疑うことなくこれまで信じていた。しかしそうではないこともあるのかもしれない、初めて疑問が意識の中に降りてきた瞬間だった。何がどう疑問だとはっきりと言葉にできないけれど、何かがあると思った。

カイロは人であふれている。全ての車からクラクションが鳴っている。信号があるのかないのかよくわからない。クラクションを常に鳴らして車は自身の存在を示そうとしている。警告音としてではなく、呼吸するようにクラクションを鳴らす。そして大声で誰かを呼ぶ。これがカイロの街の音だ。

01 カイロへ

2006年9月8日、カイロ国際空港に到着した。関西国際空港からエミレーツに乗り継ぎ、さらにドバイ国際空港で早朝に数時間待たされて、すでに20時間ほどが経っていた。タラップで地面に降り立つと、冷房で冷え切った身体をアスファルトから立ち上がってくる熱風が包む。そこからバスに乗り込み、次に降ろされた到着ホールは簡素な建物だった。壁にアラビア語の装飾があった。現地のアラビア語に胸が高鳴った。順路を辿っていくと、「『地球の歩き方』学生ボランティア エジプト 遺跡保護活動 国際交流」と書かれたプレートを持って出迎えに来ている添乗員らしき男性を見つけた。彼に言われるがままに両替とビザの購入をし、荷物を受け取って出口に向かう。

空港の出口には、たくさんのタクシーの客引きが待ち構えている。彼らはみな、携帯電話を耳にくっつけて大声で喋っている。彼らの携帯電話は、親指と人差し指でつまめる程度に小さく、2つに折りたたむことも絵文字を打つこともしない、ただ声を遠くに運ぶことに特化したNokiaの黒いカブトムシのような端末である。Nokiaは日本ではあまり見かけないが、携帯電話市場で世界最大の携帯電話メーカーだ。旅行客が出口を出ると、それまで携帯電話で話していた彼らは”TAXI!!TAXI!!”と叫び、我さきに自分の乗客を捕まえようと客引きを開始する。彼らが乗っているタクシーは、セダンタイプでドアが4つあり後部座席に3人が乗ることができる日本でも見慣れた車種である。しかし、窓は全開、エアコンは機能してるか不明、数えきれないへこみが至るところに見られる。そしてドライバーは呼吸をするようにクラクションを鳴らす。この客引きの波はものすごい圧力で、押し寄せてくる空港の熱風のようである。

ムスタファさんがバスが到着したと私たちに知らせた。このツアーの添乗員は2人いて、1人が先に迎えに出てきたムスタファさんで、もう1人がバスに乗っていたイスラムさんだ。2人とも英語と日本語を操ることができ、とても穏やかで優しい人柄である。タクシーの客引きの波を通り過ぎた。ムスタファというのは預言者ムハンマドの別名でイスラム圏で広く用いられる名前である。しかしそんなことよりも、彼の眉毛がなだらかな波のように結ばれていて、私たちはみな会った瞬間からすっかり魅了されてしまった。私たちはバスに乗り込んで33km離れた宿に向かった。

カイロは世界でもっとも古い文明を持つ都市のひとつである。この都市はナイル川の下流に位置している。夏にはナイル川が氾濫し、河口ではその豊かな水と太陽で農作物を育てる。「ナイルの賜物」とヘロドトスが言ったというその場所である。数多くの王朝がこの場所で起こり、都市を築き文化を育み他文化と交流した。このエジプトの歴史について専攻することを、私はなんとなく選んだ。決め手があったようでなかったような気もする。ムバラク政権はこの年に25年目を迎える。

高速道路を移動していくと、道の脇にあちこちで民家を建設しているのが数多く見える。その作業風景はおどろくほど簡素で、人が手作業で木や鉄筋の棒を軸に泥やレンガを埋めて壁を作っている。四角い窓があり、屋根は平らで3階建てか4階建てほどの長方形の空間を次々に積み上げている。どういうわけか、どの建物も屋根から棒が突き出たままの状態で人が住み始めているようだ。住人たちは窓からたくさんの洗濯物を干している。この作り方で壊れないのだろうか。灼熱の太陽の下で作業を進める彼らを、冷房が効きすぎているバスの窓越しにぼんやり眺めていた。