13 ハーン・ハリーリ

翌朝、空が明るくなってきたけれどまだ太陽が上りきらない時間、ホテルの窓から下の道路を眺めると、ゆっくりと前進する車が前方に取り付けられた2つの大きなブラシをぐるんぐるんと回転させ道路を水洗いしていた。この車が通り過ぎると、道端に捨てられた大量のゴミがきれいさっぱりなくなっていく。エジプトでゴミをゴミ箱に捨てる人はほとんど見なかったが、一方で掃除にはとても力をいれていてきれい好きなように見える。不思議だ。

今日もムスタファさんは私たちをホテルまで迎えに来た。私たちはカイロの最古のスーク、ハーン・ハリーリ(Khan el-Khalili)に向かった。アル・フセイン・モスク(Al-Hussein Mosque)の西端にある広場でバスが止まった。バスを降りるとたくさんの人が道端に座っている。男性も女性もモスクの外壁にもたれたり、歩道の段差に腰掛けたりしている。バスから降りてきた参加者の1人、リーダーも建物の階段に座りこんでいるのに気がついた。その横からムスタファさんが腰をかがめて彼の顔色を見ている。どうやら彼は食あたりになってしまったようだ。するとムスタファさんはどこからともなく、コーヒーの入った白いカップを持ってきた。そしてカップにレモンを絞り、彼に飲ませた。コーヒーとレモン、とても刺激的な飲み物のように私には思える。その土地によって異なる民間療法の考え方はとても面白い。

ここでは、カイロ大学日本語学科の学生6人が私たちを待っていた。このツアー2つ目のテーマ、異文化交流である。ムスタファさんが彼らを私たちに紹介した。4人の女性はヒジャブをかぶっている。オリーブグリーン、コーヒーブラウン、エジプシャンブルーのチェックやマーブル模様、スカーフはするりとした手触りで透けるほど薄手で涼しげである。ヒジャブは髪を隠すものだという説明を読んだことがあった。しかし彼女たちの姿は全くそうは見えなくて、1枚の平らな布地を見事に操り、毎日を彩るファッションとして呼吸するように身につけているように見えた。1人の女性はヒジャブをかぶっていない。最後は水色のポロシャツを着て黒縁のメガネをかけたバズカットの男性だ。ヒジャブをかぶっていない女性に理由を聞いてみると、彼女はキリスト教徒だからかぶらないと言った。私たちは凛としたたたずまいのヒジャブ姿が羨ましくて、スカーフを買いにいくことにした。

私たちはカフェの横の小道からハーン・ハリーリの路地に入った。スークはどことなく薄暗い。地面にも天井にもあらゆるところに商品が並んでいるのだ。路地の右側には手のひらサイズのピラミッドの置物、ラクダのぬいぐるみが並び、その上には幾重にも重なるビーズのネックレスがかけてある。左手にはシーシャがひな壇に並べられ、その先には華やかな紫や青のカフタンを着たマネキンが並んでいる。頭上にはバラックのように左右に渡した建材に丸いワラ細工のようなものが球状に括り付けられている。売り手と買い手がわらわらと狭い路地を行き交い、私たちはその流れの中を漂うように進んでいく。

12 ブラザー

その後、私たちは赤のピラミッドの内部に入った。赤のピラミッドは断面が二等辺三角形である。そして屈折ピラミッドを見て、メンフィスに移ってラムセス2世の巨像を見た。建物内部に横たわる形で保存されている巨像を、2階の回廊から見下ろした。大きかった。ほこりっぽく気だるい空気が流れる場所だ。そしてここでも私たちはゴミ拾いをした。ゴミはほとんど落ちていなかった。

そしてムスタファさんは、次に私たちをサッカラのカーペットスクールに連れて行った。建物の中に入ると、大理石の壁で囲まれた部屋はひんやりとしていた。長方形の窓があるものの、窓から日差しはほとんど入らない。暑さを避けるためなのだろう。色とりどりの絨毯が壁に掛けてある。床の上にも絨毯が広げた状態で積み上げられている。絨毯を織っている人もいる。横2.5mに高さ1.5mの木枠の中央に椅子があり、無数の糸を縦横に交わらせて模様を作り出している。階段を降りるとそこにも絨毯が山積みになっていて、他の観光客が商談を進めているようだった。大学生の私たちは誰も絨毯を買わなかった。

ようやく宿に戻るのかと思ったら、唐突にバスが止まった。ムスタファさんは休憩だと言っている。ここは舗装されておらず白い地べたの道端に大きな木が枝を伸ばして木陰を作っていた。その下に小さな敷物を敷いて地元の人らしき数人が座っている。ムスタファさんは彼らから小さな果実を受け取り、私たちに一粒ずつ手渡した。この果実はナツメヤシを乾燥させたもので、栄養価が高くエジプトではおやつによく食べられるものだ。ひと口かじってみると、とてつもなく甘い。保育園の給食でドライカレーに入っていた干しぶどうが食べられなかった記憶がよみがえった。喉を一回転させるようにうっとする気持ち悪さがこみ上げてしまう。周りのツアー参加者はおいしそうに食べている。私は食べ切ることができずにそのまま残りを手のひらで握りしめたままでいた。

彼らも小さな土産物を売っていた。このような土産物屋を私たちに紹介するとき、ムスタファさんは「ブラザー」がやってる店だからオススメだと言う。あらゆる場所に「ブラザー」が存在する。一体どれだけ家族が多いのだろうか。本当は家族ではないのに、私たちを安心させるために嘘をついているのだろうか。

私たちはようやくホテルに戻った。私は、ホテルのスーベニアショップをのぞいて少し時間を潰すことにした。今日もアフマドさんは陽気に話しかけてきた。どこに行ったのかとかいつまで滞在するのかとか他愛もない話をした。ふと、アフマドさんは娘のサラちゃんの写真を見せてくれた。10歳くらいの利発そうで彼のように人懐っこい雰囲気がある。家に遊びにおいでよとアフマドさんは言った。とても興味を引かれたが海外で会った人の家に遊びに行っていいものか迷いがあった。日程確認してみる、と濁してその場を離れた。

11 ダハシュール

今日はダハシュール、メンフィス、サッカラに向かう。バスに乗って1時間の距離だ。ギザよりも以前に建てられたピラミッドがあるらしい。ぼんやりとピラミッドというのはひとつだけだと思っていた。ここには黒のピラミッドや赤のピラミッドや屈折ピラミッドがあるとムスタファさんが車内で説明した。流れていく外の風景を青味がかった窓ガラス越しに眺めながら私は聞いていた。どんなに説明を重ねても、それは砂の中にあり太陽が照り付けていて三角錐の建造物であることには変わりがなく、これ以上たくさん見てもどうしろというのだ。

私はほとんど飽きていた。砂の中の巨大建造物に飽きて、また悶々と考え込んで憔悴していた。大学に入ると同時に、人間社会の中で人間らしく生きていくための訓練を始めた。卒業したら会社で働くことになり、その時には組織の集団で飲み会やカラオケに行くこともあるだろうと、人格矯正をしようと思ったのだ。その結果は散々で他の人間とうまく付き合えない自分にただただ意気消沈した。あるところではどんなに頑張っても弾き出されて、しかしあるところではすんなり溶け込めることができた。それでも何か至らないことがあればまた弾き出されてしまうのかもしれないと怯え、誰かに寄り掛かりたいと思ったり裏切られるのを恐れたり、頭の中にずっと言葉が鳴り続けていた。

私たちはダハシュールに到着した。バスを降りると言葉を失った。真正面に降ってくる日差しはいつも通りに暑い。けれど身体の内部を冷たさが通り抜けた。何もなかった。地面があってそれが遠くかすんでいる地平線まで続いているのに何もない。人間もいないし植物もないし建物もない。そんな場所はこれまでの人生で見たことがなかった。なんて、なんて清々しいのか。それまで頭の中でこんがらがっていた人間関係とかそういうことはまったく些末なことで、切って捨てればいいのだ、宇宙空間ってこんなところだろうかと思った。自由だ。縛り付けるものはなく解放されている。哀しくて嬉しくて涙が出そうだった。冷たくて残酷で喜びにあふれている。近くにツアー参加者がいるはずなのに、たった1人で立っているような感覚だった。何も聞こえない。静かだ。

私はここで写真を撮らなかった。撮る対象を見つけられなかったのだ。ファインダーの先に焦点を当てるものが見つからなくて撮れなかった。だから代わりに全身で記憶しなくてはという思いに駆られた。記録する術がそれしかなかったからだ。そしてまたいつか帰って来ればいいと思った。苦しくなってもここに来たら絶対に大丈夫だと思った。衝撃的な空間だった。

足元の砂地は靴底をやわらかく包むように地面に少し沈みこむ。視線をあげると薄い茶色の地表が水平線まで続いている。砂埃で青空の半分は白く霞んでいる。太陽光は真上から肌に降り注いでくる。遮る雲はない。周囲に建物や木々は見当たらない。音がどこにも反響することなく消え去っていく。風が吹くと砂粒がさらさらと風下に流れていく。その風は先を歩いた人の足跡をすぐに消し去っていく。道らしい道はない。かつてこの地を旅した商人たちは一体どうやって目的地へたどり着いたのだろうか。この向こう側にある場所を目指すなんて勇気は一体どこから出てくるのか、それくらい異世界で、私は歩き回ることもできずに茫然と立ちすくむことしかできなかった。

10 雑で適当でカオス

私たちはディナークルーズを満喫し、宿に戻った。私はアラエさんとペットボトルの水を買いにいくことにした。「ホテルで買うよりも近くの売店のほうが格段に安いよ」とたっくんが教えてくれて、一緒に出かけることにした。陽が落ちたカイロの街は、まるで夜明けのようなまどろんだ空気になっていた。売店は90cm程度の入り口の奥にガラスの商品ケースがあり、右の壁際にある木棚に調味料やスナック菓子が並んでいた。左の壁際にはBottled waterが6本パックでビニールに包まれて床に積み上げられている。商品ラベルにはアラビア語のロゴが印刷されていた。ボルヴィックやエビアンなどのブランドも少しある。私たちは店主の男性に声をかけて値段を聞いた。私は1.5Lの水を1本買ってみることにした。エジプトの小銭を手の上に広げて言われたコインを探す。初めて訪れた国での買い物はたとえ少額であっても緊張した。バカにされるのも嫌だけれど、かと言って助けてもらわなければ何もできない。店主が必要な額のコインを指差して教えてくれ、無事に買い物を終えることができた。私は「シュクラン」と言って店を後にした。少し胸のあたりがホクホクした気持ちになった。

その後、私たちは道すがらメリディアンホテルに立ち寄った。たっくんが両替をするというからついてきたのだ。エントランスロビーを歩くと赤い絨毯がふかふかしている。天井から吊るされたシャンデリアがキラキラと輝いている。このホテルはとても立派な高級ホテルだ。待っている間にトイレを借りた。見慣れたスタイルだった。日本を離れてたった3日なのにたちどころに安堵感があふれてくる。海外に来たのだと突きつけられる様に実感したのも、ドバイ空港の身長差を強烈に伝える高い便座だったことを思い出した。

両替を終え、私たちは宿へと向かった。通りを歩いていると、散歩に出かける家族連れを見かけた。小学生ほどの子供もいるし、もっと小さな子供を腕に抱えて歩いている家族もいる。カイロの人々は昼間の暑さを避けて、夜に外出するのかもしれない。物売りの子も籠いっぱいにティッシュや小さなおもちゃを持って売り歩いている。車の往来の間を人々はごく自然に、アイコンタクトや身振り手振りでドライバーたちと意思疎通をして渡っていく。信号なんて待つ人はどこにもいない。私たちは現地の人についていくようにして必死に渡る。通りにはしばしばロバで野菜や果物を運ぶ人がいたり、気怠そうに座り込むラクダがいたり、馬に乗っている警官がいたりする。また人々は道端に平気で座り込んで談笑する。簡易的なピクニックをしているのだ。この通りは3車線ほどの道幅で車もひっきりなしに行き交うのだが和やかにピクニックしている。カイロの道路はおおらかでなんでもありだ。そう、おおらかだ。雑で適当でカオスのこの街はおおらかなのだ。

09 ナイル川

陽が落ちた頃、ムスタファさんやイスラムさんに見送られて、私たちはタクシーでナイル川の船上ディナーに向かった。全員、エジプトのタクシーに乗るのは初めてだ。ホテルの部屋のルームメイトと一緒にタクシーに乗りこんだ。タクシーは黄色い車体でボロボロの中古トヨタ車だ。私はアラエさんと一緒だ。エジプトのタクシーはメーターが付いていて、距離に応じて値段が変わる。しかしこのメーターはたいてい壊れている。だから必ず、目的地に応じて値段交渉をする必要がある。ムスタファさんは、私たちにあらかじめ相場の値段を教えてくれた。タクシーの運転手はクラクションを常に鳴らしている。開け放った窓から風が吹いてくる。陽気な運転手はどこから来たのかと、私たちに話しかけてきた。隣のタクシーから窓越しに話しかけられると、大きな声で返事をする。信号に従っているようには見えず、どうしてこれでぶつからないのか、私たちは命がけでタクシーに身を任せた。目的地まで20分くらいだっただろうか。ただ乗っているだけなのに、アラエさんも私もとてつもなく必死だった。

私たちはナイル川のほとりに到着した。タクシーを降りてから運転席の窓越しに代金を手渡した。なんとか無事に命がけタクシーの冒険が終わった。他の参加者も無事に到着した。桟橋には曲線を描いた白い金属製の柵があり、その向こうにクルーズ船MIS AQUARIUSが停泊していた。船の大きさは50mあるいはもう少し大きく、客室が2階までありその上はデッキになっている。どこかのホテルグループが所有しているようだ。観光客向けにエジプト料理、ベリーダンス、スーフィーダンスを用意したディナークルーズはナイル川のそこかしこにある。船内に入ると、テーブルの上にずらりと料理が並んでいるのが見えた。けれど薄暗くてどんな料理なのかよく見えない。そもそもエジプト料理だから何が入っているのか判別することができない。私はとにかく警戒していて、加熱したものだけを選んだ。客は100人ほどいるだろうか。その中央に小さなステージがある。私たちが食べているときに、様々な音楽やダンスが繰り広げられていた。

初めてベリーダンスを見たのは、西日暮里のザクロ、アリさんのお店だ。東洋史専攻の新入生歓迎のお食事会が、伝統に従ってザクロで開催されたのだ。ザクロでは床に絨毯を敷き、その上に様々な料理を並べ、客は靴を脱いであぐらをかいて輪になって料理を楽しむ。店主のアリさんはトルコの出身で、流暢な日本語でアグレッシブな営業トークを繰り広げる。週に何回かベリーダンスのショーがあり、客席の中央のスペースでダンサーが踊り、そしてアリさんの掛け声のもと客は強制的にダンスに参加することになる。隣の席の初対面の人たちとベリーダンスを踊ることができる陽気な店である。日本ではエクササイズ感覚でベリーダンスを習っている人が多い。腹部を揺らす動作が中心なので、ウエストが引き締まるという理屈である。ザクロで見たダンサーもすらりとした体つきだった。ダイエットという言葉が至上命題として降り注いでいる日本において目指すべき理想体型である。

そうではないのかもしれない、と小さな予感が降ってきたのは、先月パレスチナ出身の友人が踊ってみせてくれたベリーダンスだった。ベリーダンスというのは、腹部を揺らすのではなく、いかに腹部の肉を揺らすかなのだ。豊かな人ほどセクシーであるという。ウエストが細いほうがよしとされている基準しか知らなかったが、全然違うのだ。ここでは細いウエストではただただ貧相にしか見えないのだ。なんて言ったらいいんだろうか。表現する日本語すら見つけられない。本当にお腹に肉が揺れることが美しく見えてくるのだ。この船のダンサーもまた優美に妖艶にお腹の肉を揺らしている。

ステージでは、黄緑とピンクのネオンカラーの衣装の男性がその場でくるくると廻り始めた。スーフィーダンスである。世界史の教科書でスーフィズムの説明のページを開くと併せて写真が載っているあれである。本当にくるくる廻っていてまるでコマを回しているようだ。回る踊りだと知っていたのに、この目で見るまであんなに廻るなんて想像していなかった。知っていると思ってもわかっていないことがある。百聞は一見にしかずと古くから言うけれど、そういうことではなくて、知っているとか見たことがあるとかそれで私たちは何を共有しようとしているのだろう。

08 地中海

そのまま少し歩いて、海岸沿いの堤防に座ってしばらく休むことにした。5分もすると次第に元どおりに見えるようになってきた。心配そうに眉を下げたムスタファさんの顔が目に入った。目の前には深い蒼色をした地中海が広がっていた。風が強く白い波が荒れている。カップルがピクニックをしている。女性のヒジャブが風になびいている。白い服を着た少女が防波堤の上を歩いている。カイロとは全く異なる風景だ。

昼食休憩のときにトイレに立ち寄った。観光地のトイレにはトイレおばさんがいる。指を擦り合わせる仕草でチップが必要だと言っている。私はあわてて小銭を探す。ただでさえトイレのスタイルが日本と違い、幾分緊張しながら向かうのに、さらに門番がいるのでとても怖い。チップと交換にトイレットペーパーを渡してくれ、随時床掃除をして清潔にしてくれる。彼女たちはなぜかみんな怒った顔をしている。

私たちはホテルに戻った。交通量の多いキング・ファイサル通りに面したエントランスは赤い絨毯が敷いてあり、エントランスポーチには背の高い鉢植えの観葉植物が並び、ガラス張りの壁とガラスのドアがある。たいていいつもドアは開け放たれいて、中に入るとガンガンに冷房が効いている。ロビーの壁と床はクリーム色の大理石で、少し歩くと右手にレセプションがある。レセプションの右側の壁には4つの時計が掛けられ、それぞれ下に金色のプレートがついている。左からTOKYO, LONDON, NEW YORK, CAIROと並んでいる。その下には、横14マス縦10マスの棚があり、部屋の鍵が置いてある。レセプションの奥には、エジプトの民族衣装やポストカード、キーホールダーを並べたスーベニアショップがあった。時間潰しに眺めていると、店主が声をかけてきた。アフマドさんというそうだ。人懐っこいくりくりとした眼をして、グレーまじりの口髭をはやし、オーバル形のメガネをかけた男性である。いつも笑顔で絵に描いたように白い歯が三日月の形に微笑んでいる。私は通りかかるたびに挨拶するようになった。

07 カタコンベ

私たちはホテルで朝食を食べる。ウェイターのムハンマドさんはつまみ食いをして、その度に私たちに向かってウィンクをする。私はエジプトで口に入れるものはかなり警戒していた。なぜならカリーマ先生の言葉が引っかかっていたからだ。エジプト出身のカリーマ先生はNHKアラビア語講座でも教えている。笑顔がかわいいし授業も楽しくて学生からの人気もある。彼女によると、「ナイルの水は世界一だ。世界一周のクルーズ船で食中毒が起きてもエジプト人だけは大丈夫。なぜかというと日々の生活で鍛えられているから。」だそうだ。だから、宿以外で生野菜や果物、氷入りのジュースを出来る限り避けてきた。しかし気を遣うあまりに食べられない物が多く、そろそろフラストレーションが限界に達しそうだ。

この日、私たちはバスでアレクサンドリアに移動した。ムスタファさんのアナウンスによると、すでに何人か腹痛の症状が出ているらしい。「ナイルの水は世界一」という言葉の真実味が増してきた。アレクサンドリアはナイルデルタを降って、カイロの北西200kmに位置する地中海沿岸都市である。3時間ほどかかった。その道中、バスの中で悶々と考え込んでいた。1週間前に初めてできたらしい彼氏はその3日後に別れようと言い出した。人間との信頼関係というのは一体なんなのだろうか。頭の中を彼の言葉と私の言葉がぐるぐると回っていた。答えの見えない脳内押し問答とバスの冷房と車酔いへの警戒で私はぐったりしていた。

私たちはまずポンペイの柱に立ち寄り、それからコム・エル・シュカファ(Kom el-Shoqafa)のカタコンベに行った。カタコンベというのは地下に作られた共同墓地である。この場所はローマ帝国支配下の1-3世紀に使われていた。岩盤をくり抜いて作られた階段が地下へと続いている。ピラミッドの通路よりも広く、しゃがむことなく歩いて行ける幅と高さがある。階段をくだっていくとひんやりとした空気が身体を包む。中程まで進んだところで急に目の前が真っ白になった。全部白くて見えなくなった。けれども私は微塵も動揺することなく受け入れた。怖いとも思わなかった。「ああ、してやられた。見えない。まあ仕方ないか」と、むしろ少し面白いとさえ感じていた。精神的にもやられてるし、カタコンベだし、何かにつけ込まれても不思議はない、そう思った。自力では何もできないので、近くにいるはずのツアー参加者に声をかけた。目が見えなくなったと伝えると、彼らは少しぎょっとした反応をした。左手で冷たくてギザギザした壁をつたい、右手をみきちゃんに引いてもらって、カタコンベの外に出ることができた。

06 ミナレット

私たちはカイロ市内に戻り、エジプト考古学博物館に向かった。博物館に入ると、天井は高く、白っぽい石の床が続いていた。たくさんの出土品が並んでいるが、それがなんなのかほとんど説明がない。風が吹かずむっとした空気で、暑くて埃っぽい場所だ。教科書に載っているような有名な巨像が無造作に配置されていて、その間に40cm程度のすすけた丸いものがぽこぽこ並んでいる。それら全てに”mummy”, “mummy”, “mummy”とキャプションがついていた。子供のミイラだ。新生児のミイラかと少し寒気が走った。しかし同時にこの展示は雑すぎて、申し訳ない気持ちになった。発掘される量が多すぎて解説するのが追いついていないのか、ただの物置きというか。この状態で鑑賞するには知識が足りなすぎて、私たちは足早に博物館を後にした。

ピラミッドのような複雑で巨大な建造物を作る技術を有し、ローマ帝国、イスラム世界を受け入れて数々の王朝がここに都市を作り、さまざまな民族が往来し、複雑な文化を折り重ねてきた土地の博物館がこんなに雑に存在していることに衝撃を受けた。手を抜いていい。手を抜いても誰も困らないのか。私は手を抜くというのがずっとわからない。手を抜くポイントがわからず毎回自分の身体を壊している。その繰り返しだ。私は、手を抜いて怒られたり失敗したりして後悔するのを酷く恐れている。

私たちは次にパピルスのデモを見学した。建物に入ると、壁は大理石で窓がなく、冷房が効いてひんやりとしていた。長机の端にパピルスの草が立てかけられている。パピルス紙制作の実演が始まった。パピルスは白い繊維質の中心部を緑色の外皮が覆っている。先端に細い葉をつけたサトウキビに似た外観をしている。緑色の外皮を剥いで白い中心部を水につけてふやかす。次にナイフでごく薄くスライスし、板の上に縦方向と横方向に並べ、木槌で打ち付ける。それを乾かすとパピルス紙が出来上がるという。この部屋の壁という壁にはツタンカーメンの顔やピラミッド、エジプト神話やアラビア語のカリグラフィなどの絵が掛けられている。どれもパピルスに描かれていた。大きなサイズだがお土産に買う人がいるのだろう。

この後、ムスタファさんは私たちを香水屋に連れていった。店頭には繊細なガラス細工の香水瓶が並んでいた。バラの香りがあたり一面に充満している。エジプトの香水といえばバラ一択らしい。私はバラの香りが苦手でなかなか手が出せない。他のツアー参加者は楽しそうに手にとって見比べている。どれを買うか店主と話したりもしている。私もエジプトらしいみやげものを買いたいという旅行者の見栄が内心にあった。結局、赤色の小さな香水瓶に入ったバラの香水を1つ購入した。香水瓶は10cmほどの高さで、ワイングラスのように直径2cmほどの円形の台座の上に膨らみがあり、ここに香水が入っている。上部にフタがありつまみがついている。フタをとるとその先には細長い棒がついている。この棒についた香水を直接肌にこすり付けるのだ。外側全体は切子硝子のように模様があしらわれている。少しずつ模様が違い、同じものは1つとしてない。

買い物を終えると、私たちはムハンマド・アリー・モスクに向かった。これはエジプト考古学博物館から南東方向、シタデル地区にある大きなモスクだ。ドーム型の屋根を3段に重ね、背が高く先端が尖った2本の塔がある。南校舎の教室で昼下がりに眠気と戦いながら輪読した文章には、モスクにはミナレットという塔がありその上でアザーンを歌って礼拝の時間を知らせると書いてあった。これがそのミナレットというものか。英語の文献を辿るだけではわからない。ああ、こういうことだったのかと何かポトンと腑に落ちた。ムスタファさんが、バスの中で運転席の横に立ち上がって私たちに伝えた。「金曜日の礼拝の時間でモスクの中には入れない。外から見るだけになっちゃうけどいいかな。」朝からピラミッドを回って疲れ果てていた私たちは、無言でうなずいて同意した。記念にバスの窓越しに携帯電話で写真を撮った。しかしパピルスのデモや香水屋に立ち寄る時間があったのなら、モスクを先に見ればよかったのにと残念に思った。

私たちはホテルに戻ってひと息ついた。窓の向こうからクラクションの間を縫うように何か鳴っているのに気がついた。歌のようなものだ。抑揚がついている。ようやくこれが、ミナレットから流れるアザーンであることに気が付いた。さっきミナレットを目の当たりにして、ようやくこの音の正体がつながった。実際に見て、聞いてみないとわからなかった。宗教儀式のひとつなのだから静かで柔らかな声色を頭の中で想像していた。しかし、現実はただひたすらに拡声器で最大化した大音量の騒音である。これが1日5回、礼拝の時間にミナレットから街中にあふれかえる。

05 ピラミッド

ひとしきり撮影を楽しんだ後、ムスタファさんは私たちをクフ王のピラミッドの中へ案内した。入口は人が1人ようやく入れる程度、幅50cm高さ140cmくらいの穴がくり抜かれている。この入口の先に薄暗い階段が下へ続いている。階段と言っても木の板に滑り止めをつけたようなもので、足元はおぼつかない。大量の観光客が列をなしてトンネルを歩いていく。まるで火災時の避難訓練のような光景である。背の高い欧米系の旅行者たちは大きな背中を丸めて歩いている。階段を降りたり登ったりして必死で前の人に着いていく。狭くて暑くて人が大勢いて息苦しくてほとんど記憶がない。急に列の歩みが止まった。そこには何もない空間が広がっていた。ただただ何もなかった。そこにいた全員が何もない空間で息を飲んだように何かを見つけようとあたりを見回していた。そしてやっぱり何もなくて、なんで必死の思いをして来たんだろうとまたがっかりした。

ギザのネクロポリスには4つのピラミッドがある。最も大きいものがクフ王のピラミッドでその次がカフラー王のピラミッド、その次がメンカウラー王のピラミッドで、小さな3つのピラミッドが並ぶのが王妃のピラミッドだ。カフラー王のピラミッドだけ、上部に建設当時の表面を覆っていた化粧岩が残っていて白っぽく見える。これらのピラミッドが建設されたのは紀元前2500年頃、古王国時代である。ピラミッド研究は考古学に属する。考古学というのは発掘する場所を決めると、数ヶ月にわたって掘り続ける、細心の注意を払いながら堀り続ける作業である。民族考古学の山口先生はポリネシアの専門だが、掘り続けると鬱になると言っていた。彼の授業はいつも面白かった。そしてその言葉が宙に浮いたように頭の中に思い出された。

私たちはさきほど来た狭い道を、また同じように必死の思いをしながら戻って外に出た。ムスタファさんが遺跡周辺のゴミ拾いをしようと、ビニール袋を私たちに配った。このツアーは遺跡保護をテーマのひとつにしているからだ。私たちはビニール袋を片手に太陽を白く照り返す地面を目を凝らして歩き回った。しかしゴミなんてほとんど落ちていなかった。代わりにせっかくだからと、砂漠の砂を袋に入れて持って帰った。そして次にスフィンクスの前に移動した。スフィンクスは本当に頭が人間で身体がライオンである。ピラミッドよりもずっと異様な存在感がある。「トリビアの泉」で観た通り、スフィンクスの鼻先にはケンタッキーフライドチキンがあった。キエちゃんと私は、スフィンクスの左右から頬にキスをするポーズで写真を撮ろうと決めて、よしみにカメラを預けた。よしみがファインダーを覗きながらもっと近づいてと言ったけれど、キエちゃんと私はもはやキスしそうな距離感に顔が熱くなってきた。結局、スフィンクスの両脇で恥ずかしさを堪えた横顔が2つ並んだ写真ができあがった。駐車場までの道に露天商のような土産物屋が並んでいた。店主たちは、私たちをみると「ヤマモトヤマ~」とか「モウカリマッカ?」と話しかけてくる。

04 撮影

再びバスに乗ってピラミッドのふもとまで移動する。ギザのピラミッドは太古の昔に岩を積み上げて作られた三角錐の建造物で、どこまでも続く砂漠と同じ色をしている。これは数字の上ではシンデレラ城よりも高い。しかしとても低く迫力がない姿に見える。テレビで見た画があまりに仰角で期待を大きくしすぎたのだろうか。渋谷の高層ビルに比べたら全然低いじゃないかとがっかりしてしまった。

そうは言っても、ピラミッドを目の前にした私たちは嬉々としてポーズをとって写真撮影をした。ムスタファさんはピラミッドのポーズをやって見せてくれた。これは左の親指と右の親指、それ左の人差し指と右の人差し指をそれぞれくっつけて三角形を作るものだ。キエちゃん、よしみ、みきちゃん、ムスタファさんとイスラムさんの6人で写真を撮った。今度はピラミッドの石に登ってみる。実際に足をかけてみて気がついた。これらの石は1つ1つがとても巨大でとても簡単には登ることができない。一辺が1.5mはありそうだ。3段に分かれて並びポーズを取った。ムスタファさんは6人分のカメラを腕に抱えて、撮る度に誰のカメラか確認しながら代わる代わるシャッターを切り続けた。添乗員というのは大変な仕事だ。

周囲の外国人観光客も一眼レフカメラやコンパクトカメラでたくさんの写真を撮っている。撮って誰かに見せたいと願う。ああ、これは小さな祈りなのだ。叶うかもしれないし叶わないかもしれない。誰も見ないし誰も共感しないかもしれない。こんなにたくさんの写真を撮ってどうするのだろう、そういう疑問や不安に蓋をするようにファインダーを覗いてシャッターボタンを押し続ける。

私たちは普段、携帯電話で写真を撮る。写メールという言葉が誕生して以来、ここ数年で次々とカメラ機能付き携帯電話が発売されてきた。しかしここエジプトではほとんど見かけることはない。彼らの携帯電話には写真を撮る機能がないようだ。私たちは、写真を撮るための専用の道具があるにもかかわらず、2.2インチの液晶画面でやり取りするために写メを使う。常に手元にある道具で撮って、すぐにメールで送ったり、ミクシィにアップできることが最大の魅力だ。うまく撮れなかったら消去すればいいから、とても気楽になんでも撮る。

それに比べて、使い捨てカメラを最後に使ったのはどれくらい前か思い出せないほど昔のことだ。使い捨てカメラなんて昭和の産物である。子供の頃、旅行先で観光客向けの売店で目立つ場所に置かれていたのを見かけた。あるいは家族で厚生年金プールに行ったときに両親が使い捨てカメラを買っていたような気もする。自分で写ルンですを購入したのはこれが初めてだ。価格は1000円を少し超えるくらいだっただろうか。こんなに高いのかと少し驚いた。うまく撮れたか確認することもできないし、撮れる枚数にも限りがある。現像にもお金がかかるし、直接会う人にしか見せることができない。現像しても保管場所に困ったりもする。アルバムを常時持ち歩くわけにもいかない。不便極まりない。緊急事態にしか使うことはない道具である。