私たちはホテルで朝食を食べる。ウェイターのムハンマドさんはつまみ食いをして、その度に私たちに向かってウィンクをする。私はエジプトで口に入れるものはかなり警戒していた。なぜならカリーマ先生の言葉が引っかかっていたからだ。エジプト出身のカリーマ先生はNHKアラビア語講座でも教えている。笑顔がかわいいし授業も楽しくて学生からの人気もある。彼女によると、「ナイルの水は世界一だ。世界一周のクルーズ船で食中毒が起きてもエジプト人だけは大丈夫。なぜかというと日々の生活で鍛えられているから。」だそうだ。だから、宿以外で生野菜や果物、氷入りのジュースを出来る限り避けてきた。しかし気を遣うあまりに食べられない物が多く、そろそろフラストレーションが限界に達しそうだ。
この日、私たちはバスでアレクサンドリアに移動した。ムスタファさんのアナウンスによると、すでに何人か腹痛の症状が出ているらしい。「ナイルの水は世界一」という言葉の真実味が増してきた。アレクサンドリアはナイルデルタを降って、カイロの北西200kmに位置する地中海沿岸都市である。3時間ほどかかった。その道中、バスの中で悶々と考え込んでいた。1週間前に初めてできたらしい彼氏はその3日後に別れようと言い出した。人間との信頼関係というのは一体なんなのだろうか。頭の中を彼の言葉と私の言葉がぐるぐると回っていた。答えの見えない脳内押し問答とバスの冷房と車酔いへの警戒で私はぐったりしていた。
私たちはまずポンペイの柱に立ち寄り、それからコム・エル・シュカファ(Kom el-Shoqafa)のカタコンベに行った。カタコンベというのは地下に作られた共同墓地である。この場所はローマ帝国支配下の1-3世紀に使われていた。岩盤をくり抜いて作られた階段が地下へと続いている。ピラミッドの通路よりも広く、しゃがむことなく歩いて行ける幅と高さがある。階段をくだっていくとひんやりとした空気が身体を包む。中程まで進んだところで急に目の前が真っ白になった。全部白くて見えなくなった。けれども私は微塵も動揺することなく受け入れた。怖いとも思わなかった。「ああ、してやられた。見えない。まあ仕方ないか」と、むしろ少し面白いとさえ感じていた。精神的にもやられてるし、カタコンベだし、何かにつけ込まれても不思議はない、そう思った。自力では何もできないので、近くにいるはずのツアー参加者に声をかけた。目が見えなくなったと伝えると、彼らは少しぎょっとした反応をした。左手で冷たくてギザギザした壁をつたい、右手をみきちゃんに引いてもらって、カタコンベの外に出ることができた。